「…っひぁ、…ん、…っく」

しとしとと雨が降る中、そのか細い声に気が付けたのは。
今となっては偶然ではなく必然だったのだと、僕には思えた。


大学の講義が終わり、間借りしているアパートへの帰り道。
朝から雲行きの怪しかった空は、ついにぽつぽつと雨粒を零し始めた。
傘を持っていなかった僕は、本格的に暗くなりだした空を見上げ途方にくれた。
本降りなる前に帰らないと。
ここからアパートまでは、まだかなりの距離がある。
このまま表通りを行っては、着くまでにずぶ濡れになることは必至だった。
仕方がない。
僕は、あまり気は乗らなかったが、アパートまで最短で帰れる道に足を向けた。

NYに留学で訪れたのは、ほんの一週間ほど前だ。
だから、僕はここがどういう場所なのか、実感として分かってはいなかった。
表通りとは一線を画し、犯罪が横行する場所だという知識は有った。
が、日本で安穏とした生活を送っていた僕の判断は、大いに甘かったと言うほか無い。
雨に濡れないよう、教材の入った鞄を胸に抱え、小走りにスラム街を走り抜ける最中。
通り過ぎようとした路地から、か細い悲鳴が聞こえたのだ。
苦しそうな呻き声にも似たそれに、僕は思わず足を止めた。
場所を考えれば関わるのはまずいと分かっていたのだが、もし誰かが倒れでもしていたら大変だと、僕は恐る恐るその路地へと足を踏み入れたのだった。

奥へと歩を進めていくと、微かに届いていた声が、明らかな呻き声として耳に届くまでになった。
僕は焦燥に駆られ、恐る恐るだった歩みを止め、一気に路地の最奥へと分け入った。

果たして。

「……っ!?」

そこで繰り広げられていた光景に、僕は瞬間息を呑んだ。

それは、複数の男に群がれ、嬲られる少年の姿だった。
辛うじて腕に引っかかっているTシャツ以外、全て剥ぎ取られ、体中を白濁としたものに汚されたその姿に頭が真っ白になる。

だが、虚ろだったその少年の瞳が不意に僕を捉え、つとそのブルーグリーンの瞳と視線が合った瞬間。
僕の頭に一気に血が上ったのが分かった。
自分でも驚くほどの怒りと破壊的な衝動に駆られ、僕は足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げると、そのまま群がる男達に殴りかかる。
少年に没頭していた男達は、何が起きたのか分からなかったのか、僕を認識すると、ひっと悲鳴じみた声を上げ、わたわたと路地奥から駆け出していった。

その後姿を見届けて、僕は肩で息をしていた自分の呼吸を落ち着かせると、ぐったりと横たわる少年に目を移す。

「大丈夫、か…?」

どう見ても大丈夫そうには見えない相手に、僕は何を言っているのだろうと思ったが、
返ってきた答えは、僕の質問以上に、予想だにしないものだったのだ。

「アンタ…、何してくれんだよ…」
「え…」
「ひとの客逃がしやがって。今日の飯、食いっぱぐれちまったじゃねぇか」
「…な、に?」

彼の言っていることが理解できずに、呆然と立ち尽くしていると。
彼は、気だるそうに身体を起して、ああ、と納得したように声を漏らした。

「あ、アンタが買ってくれるってわけ?」

何を。と問う前に彼は淡々と続ける。

「手なら10。オーラルなら20。下使いたきゃ、30は貰うけど?」
「な…。違、…そんなつもりじゃ…」

ここにきて、やっと彼の言ってることに理解が及んだ僕は、湧き上がった羞恥と戸惑いに耳まで赤くなるのが分かった。

「で、どうすんだよ?」
「だか、ら。違うんだ、その、…ごめんっ」
「はぁ?」

何をどう言い繕って良いのか分からず、僕は怪訝な顔をした彼に勢い良く頭を下げて、
鞄の中にあった財布を押し付けるように彼に握らせ、脱兎の如くその場から逃げ出した。
恐らく僕は。彼の「商売」を邪魔したに違いない。
それでも、あんなことを普通に受け入れている少年に怒りを覚えるのは、僕が甘過ぎるせいだけとは思いたくなかった。
けれど。今の僕には訳の分からない悔しさを押さえ付けることだけで精一杯だったのだ。


「何だったんだ、アイツ…」

手の中に押し付けられた革の財布に視線を落として、俺は呟いた。
久しぶりに結構な金が手に入りそうだったから、今の状況は非常に納得の行かないものではあったが、
期待せずに開いた財布の中を見遣って、俺は目を疑った。
男どもにマワされたぐらいじゃお釣りがきそうなその額に驚く。
別にアイツが俺を買ったわけでもないのに、一体何だというのだ。
暫くは食べていくのに困らなそうなその財布の中身を物色していると、俺はあるものを見つけた。

「なにこれ、学生証?」

恐らく、これは某有名大学の生徒証だ。
こんな大切なものを他人に渡してアイツは大丈夫なのだろうか。
余程気が動転していたのだろう。

「馬鹿なヤツ…」

財布の持ち主の、お人好しそうな顔を思い出して、俺は久しぶりに声を立てて笑った。








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